皆さん、おはようございます。
今日で、阪神・淡路大震災からちょうど30年が経ちます。この節目に、私自身の経験を交えながら、皆さんに伝えたいことがあります。
30年前の1995年1月17日、午前5時46分。地の底から響くような「ゴゴゴゴゴー」という音とともに、突然「ダーン、ダーン、ダーン」と衝撃があり、続いて激しい揺れに襲われました。私はベッドから振り落とされそうになりながら、慌てて携帯電話を手に取りました。学園長である兄に電話をしましたが、繋がらない。てっきり、東京が震源だと思い、東京の友人に連絡すると揺れてないとのこと。彼女に、「神戸の実家に電話する方がいい、地震だ」、とだけ伝えて電話を切りました。
その時、 子どもが目を覚まし「お母さん、何?」と尋ねました。「地震。お母さん、様子を見てくるね」と言い、リビングへ向かいました。テレビが部屋の真ん中まで飛び出し、玄関のドアをおそるおそる開けると開いたのでほっとしました。
そこから妙なスイッチが入りました。私は子どもたちに「ランドセルに教科書を入れて」と指示をして、自分はスポーツウエアを着て分厚い底の靴を履き、携帯電話と充電器を持って家を出ました。
学校に行くよ、と。学校とは須磨学園のことです。当時、私は事務局長をしていました。
当時、私は学校から車で5分。歩いても15分くらいのところに住んでいました。
学校に向かう途中、まだ夜が明けていない暗い中で、目にした光景は凄まじいものでした。1階が潰れたマンション、倒壊した家屋、ひび割れた道路。あちこちから煙が上がり、現実とは思えない光景が広がっていました。よく見えない中、回り道をしながら学校に到着。正門前で父に出会いました。学校は災害時には代表電話(078-732-1968)には規制がかからないため、外部に繋がります。学校は避難所になるからです。
また須磨学園は独自に衛星電話も備えています。もしもの時に備え、このような連絡手段があることを知っておいてください。
では、この震災を経験して、私が学んだことを皆さんにお伝えさせて下さい。
①自分にとって何が本当に大切なのかがわかるということです。 物ではなかったです。
震災が起きたとき、私は子どもたちとともに携帯電話だけを持って家を出ました。当時、学校の横に住んでいた父の安否がわからず、不安な気持ちのまま学校に到着。父は学校の被害を調べるために走り回っていたのを見て安堵しました。実家に入り、母の位牌を懐に入れて学校の事務室を開けてそれから数時間、安否確認に終始しました。
震災は、自分にとって本当に大切なものが何かを改めて気づかせられた出来事でした。私にとって大切なものは家族の命であり、人との関係であり、そしてこの須磨学園の生徒たちの安否、先生たちの安否でした。安否確認がまず一番はじめに取りかかったことでした。
② 災害時、どうやら人は普段の精神状態ではいられないようです。冷静な行動を。
私は震災直後から、ハイの状態になり、とにかく頑張らなければならない思いに取り付かれて、4年半を過ごしてきたように思います。1995年1月から1999年7月までの間、何かを考える余裕もなく、とにかく前へ進むことに必死でした。当時の記憶は曖昧で断片的です。肩の力が抜けたのが男女共学一期生を迎えた年の1学期が終わった頃でした。一週間ほど何もできない状態になり、ずっと寝ていました。その後、しばらくぼんやりとしていたように思います。
③現状を受け入れることの難しさ、判断の誤り
震災直後、さまざまな情報が入り始めましたが、頭では理解していても、なかなか現実を受け入れることができませんでした。なぜ、私たちがこんな目にあわなければならないんだ、なぜ、よりにもよって神戸なんだ、と怒りを感じながら、しかし、その怒りをぶつける対象がなく、宙に浮いたやり場のない怒りを抱えていました。そうすると正しい判断ができなくなります。これは気をつけるしかないのですが、意識している方がよいと思います。 そして、時間が解決してくれると思います。
④苦しみと困難を皆で共有する
たったひとりで震災を乗り越えることはとても難しいことだと思いました。皆で助け合う。協力しあうことが大切だと思います。困ったときはお互い様の精神です。
本校の国語の先生の自宅が倒壊し、生き埋めになっているとの知らせが入り、先生たち四、五人が須磨駅の近くの自宅に救出に向かいました。助け出されたその先生は、紫色の唇をしながら学校にやってきました。「先生、今日、お休みをいただいてもいいですか?ちょっと疲れてしまって」と真顔で学校にそれだけを言いにこられました。私はただただ「どうぞ、お大事にしてください」としか言えませんでした。
購買部にパンを納品していたパン屋さんからの電話も忘れられません。「先生、すみません、今日はパンの納品ができません。先ほどまで息子がパンを焼いていたのですが、パン窯の下敷きになり、火が出て……息子はそのまま焼かれてしまいました。もうパンを納品することはできなくなりました、すみません」。私は絶句し、何と言葉を返したのか覚えていません。ただただ、店主の律儀さに胸が締め付けられ、事務室のスタッフ全員が泣きました。
律儀というと、こんな電話もありました。これもまた国語科の教員です。「先生、今日は学校を休ませてください。今、家が燃えています。ああ、きゃー、火がこっちに来そうです」。そんな電話もありました。「早く電話を切って逃げてください!」 と叫ぶしかありませんでした。
この震災を通じて、私は強く感じたことは、学校に関わるものとして、地震が起こることを想定して、色々と備えておかねばならなかった、ということです。
皆さんにもお願いしたい。1度だけでいいので災害時にどう行動すべきかを考え、頭の中でシュミレーションしてほしい。備えておいてほしい。
学校で行う避難訓練を「ただの行事」だと思わず、真剣に取り組んでください。防災ウォークで一緒に歩いて帰宅するメンバーを知っておいてもらいたい。自力で帰宅する道を知っておいてもらいたい。そして何よりも自宅に歩いて帰る体力を身につけておいてもらいたい。
火災が起こったら、どうするべきか、どこへ逃げるべきかを知っておいてほしい。それが命を守ることにつながります。
例えば、火災時の避難行動として大切なのは:
屋外に逃げることです。 まずは、煙を吸わないこと そのために姿勢を低くして移動すること
煙は上に溜まりやすいため、床に近い姿勢で避難する、と知っているといないでは大きな違いがでます。
この30年の間に、私たちは震災から多くを学びました。しかし、記憶が薄れ、備えを怠ってしまうことが最も危険です。
皆さんは日本各地で起こった災害を知っていますが、実際にその災害を経験した人はほとんどいないと思います。実際に経験してみないと分からないことだとは思いますが、皆さん一人ひとりが、今一度、防災意識を高め、いざという時に行動できるように備えてください。
私たちは30年前のこの日、多くの命を失いました。今も生きている、生かされている私たちの責任として、震災の教訓を皆さんへと繋ぎ、共に生き抜く力を養っていただくことを支援していきます。
もし、来週、南海トラフ地震が起これば、あなたはどうするか、わかっていますか。
学校にいるとき、自宅にいるときであればまだいいのですが、通学途中、帰宅途中のときにどうするか。
私が知っていることを一つだけ、お話します。三宮、元町にいる場合、JRより北に逃げることだと神戸市の人から聞きました。
今日、家に帰ってお家の人たちと話をしてみてください。もし通学途中や帰宅途中に南海トラフ地震が起これば、みなさんどうするのかお家でお話をしてください。みんなで相談して考えてください。
私の話を終えます。
2025年1月17日 理事長 西 泰子